投稿者 笹崎辰裕
日も暮れた公園に一人の老人がいた。片手に小さなスコップを持ち、ビニール袋を持っていた。
「おい。いくぞ」
老人が言うと子犬が彼の近くに駆け寄って来た。生後2ヶ月くらいだろうか、耳の先がまだちょっと垂れていた。まだ遊び足りない様子で老人から少し離れたところでくるくるとその場で回っていた。
2年前その公園の前の駐車場は車であふれかえっていた。全ての車には人が乗っており、人たちの表情は一様に険しかった。
百数十台とめられるその駐車場には今は十数台しかとまっていなかった。乗っている人もいない。
中越地震から2年。復興の名の下に多くの建物が建ち、施設が整備された。
あの地震を私は知らない。
初めて知ったのは出張先の佐渡からの船の中で、隣に座った友人からの一言だった。
「長岡。地震だって」
起き掛けのぼんやりした頭の中で、だから?と思った。
帰りの車の中でずっとラジオを聴いていた。全壊・・・・棟。・・・・地区は連絡が取れない状況。
進まない道を刻々と被害状況報告だけが拡大していった。同じように私の気持ちも不安が大きくなっていった。運転前に、妻から無事という報告を聞いてはいたが、胸騒ぎが収まらなかった。
自宅が近づくにつれて明らかに正常ではない現状が姿を現した。妻の実家に寄り、実家の方々の無事を確認して自宅に向った。町内の明かりは消えていた。暗い自宅の前の暗い駐車場に明かりをともした車があり、その中に家族がいた。妻と子と母が3人。父はお客様の状況を確認に出かけていた。
父が帰ってきてから2階の自宅から布団を下ろし、展示場で眠った。
翌日。私達はお客様の状況を確認に回った。当時新築中のお客様の現場。それから長岡川西北方面、中ノ島、見附、そこで先輩とあった。先輩の家は被害が少なかったそうだ。全てがそうであるようにと、祈りながら南下した。
夜間は見えなかった道路状態を目の当たりにしていくにつれて、私から次第に言葉が失われていく。
ほとんど眠っていないのであろう、社員の金子君が目の下に隈を浮かべていた。
お客様の安否を確かめるために回っていたのだが、逆にお客様から励まされたりもした。
最後の担当地区、高町団地に行った時、道路がなかった。
2日でほぼ全てのお客様を回った。お客様も私達も全てが疲労しきっていた。
同じように今日お客様のお住まいをご訪問させていただいた。
お客様の笑顔からは2年前の不安はうかがえない。
完全復興を祈る花火が長岡市信濃川沿いに上がったのを見た。ラジオからは2年前に何度も何度も流れて励まされた歌が聞こえた。それから完全復興はまだという報告を聞いた。
まだ残されている問題があることも伝えていた。
2年前を思い出しながら、2年前に知った自分の立場としての責務を忘れないようにと心に誓った。