投稿者 笹崎辰裕
お客様にお礼のお言葉を頂いた。
仕事をしていてやはり一番うれしいときはこの瞬間だ。
またそのお客様が御引越しの際に片づけをしていたら、お亡くなりになられたお父様の書いた図面を見つけた。その図面はお客様が考えられていたものととてもよく似ていて、こんな家がよかったのだなとお話をされていた。その時のお客様のやさしさとさみしさの入り混じった表情が印象的だった。
帰りの車の中で人と人の意識上の認識について考えた。特に建築的に書いてみたいと思う。
お住まいを作るに当たり、お打ち合わせをし、確認をし、形作っていくのだがやはりお施主様のお考えにどれだけ合致したものになるかどこかに不安がある。なぜならどんなに一生懸命作ったとしても作っている過程では、すでにできた空間で説明しているわけではなくあくまでお互いのイメージの中でのやり取りをしていることになる。いい空間になるという確信はどれだけの手段を講じても、あくまで自身の中で構築されたイメージでしかないからだ。
イメージと一くくりすると簡単なようだがこれが結構厄介な代物だ。
どれだけのものを伝えなければならないか?
基点となる位置。長さ。高さ。触感。視覚的素材感。採光。音環境。熱環境。空気環境(匂いを含む)。経年による影響。そして雰囲気。
ちょっと考えただけでもこれだけのものが存在する。一個一個説明していたのでは日が暮れるし最後まで聞く耳を持たないだろう。逆にお客様としては上記の中の「雰囲気」だけで自分の求める空間を表現しようとする。一般的には普段必要のない知識の集大成がお客様の中には存在しないわけだから当然だ。
で、そこからどれだけのものを汲み取り、それを自身の中で再構築してご提案する。
なんだか自分で書いていて本当にそんなことをしているのかと不思議に思う。
前にも書いた?が私の好きな作曲家の久石先生が音楽家と作画家とどちらが特異な思考をしているかとエッセイを書いた。私はずっと音楽家と思っていた。
氏いわく、理論的なのは音楽家。特異的なのが作画家だという。作り出す過程として音楽には進行軸があり、それに伴い要素を組み込み進んでいく。作画と言うのはあらゆる要素を2次元の中に収縮して収めなければならない。ゆえに特異にならざるを得ない。
今でこそコンピューター技術が発達して10年前には一枚3分はかかったパースデーターもほんの数秒でできてしまう。
だが、仮想的な空間以上にはならないので、完成した空間に対しての評価が私にとって何よりの財産である。言葉にするとこれほど難解に思われる、イメージの共有ができた瞬間だと思えるから。
先日一枚の写メが届いた。感想は何も書いていなかったのだが、それから5時間後に同じ光景を見た。
うれしかったんだろうなと思った。