投稿者 笹崎辰裕
雪が降った。
外気温2度。
今回は春について書こうかな何て思っていたらこれだ。まったく油断がならない。
「どんなに泥に汚れても雪は雪」
私の好きな本に書いてあった台詞である。私はこの言葉が結構好きだ。
今日「考えを伝える」と言うことで友人と話をした。
この天候のせいか、その話のせいかこの台詞がずっと頭の中で回っていた。
誰にこの言葉を言われたら私はどう感じるか、逆にどんなシチュエーションで言われたら私はどのように感じるかを考えてみた。その場面によりとても色んな風に受け止めてしまう事に気がつきちょっとだけ驚いた。
言葉は意思を伝える上でとても有効な手段だけれども、それは言葉自身がそのときに持つ雰囲気やタイミングがあって始めて成り立つもので、例えば字体の統一された報告書やメールなどの文字だけの場合、一つの意味に集約された言葉を放つことは実はとても難しいのではないかと思う。だから、ましてや気持ちを伝えようとする場合は色んな表現が必要になってくるのかもしれない。
子供を寝かしつけるときにカミサンが子育ての本の一文を読んだ。
「3歳から4歳にかけての子供は大変好奇心が強く、色んないたずらを通して色んなことを学んでいく。その行為を阻害せずにいかに自己の行動により物を知ることをさせるかが、成長した時の発想力や想像力に影響する」
・・・・・・・・なるほどねえ。で、その行為を阻害せずにどれだけ暖かく見守れるかが大事ってこと?・・・・
想像してみた。大切な書類を書いている私。その書類を奪い、心ゆくまで破きまわる長男長女・・・・・・・・心・ゆ・・く・・・ま・・・・で・・・・・!ゴラァ!!!結果二秒も見守られない。
立派な親への道のりは、果てしなく険しく遠い。